白川郷 = 岐阜県大野郡白川村、 岐阜県高山市荘川町(旧荘川村)

2白川郷の地名呼び名など2013郷土の歴史と文化教材

白川郷地名呼名図

白川郷地名呼名図

(画像はカシミール3D、国土地理院発行数値地図25000地図画像及び、数値地図50mメッシュ標高を使用)

白川郷の地名呼び名など2013郷土の歴史と文化教材
                           
白川郷(白川村、旧荘川村)と周辺の史跡、旧跡、地名や地元での呼び名などの位置情報を紹介します。

 岐阜県大野郡白川村

 境川 
 白川村の北端と越中(富山県)の国境に「境川」という川が流れていたのである。

 小白川地区
 白川村の北端に「小白川」地区があったのである。

 打越峠
 小白川地区の山から西に通じる峠が「打越峠」であった。この打越峠北の尾根上に小白
川砦があったのである。

 籠の渡し小白川
 小白川と越中(富山県)を結ぶ国境の境川という川に「籠の渡し小白川」があったので
ある。

 小白川砦
 小白川の打越峠北の尾根上に「小白川砦」があったのである。

 加須良地区
 椿原地区から西の山奥に「加須良」地区があったのである。白川郷の北海道といわれた
秘境が「加須良集落」で、山々に囲まれた全くの別天地でした。加須良地区には外部から
の電話、電気は引線されておらず、昭和43(1968)年の離村するまで電気は自家発電?(谷
川を利用した水力発電)の生活であった。昭和42(1967)年に離村。

 加須良川
 加須良集落から、椿原の北の庄川まで流れたいたのが「加須良川」であった。「加須良集
落から加須良川沿いを下って椿原北まで通じる道」(距離約6km)は、近代の道で昔はあり
ませんでした。加須良川沿いに、加須良林道が昭和36(1961)年に完成してようやく「自
動車が」加須良集落まで入れるようになったのであった。

 蓮如峠
 加須良地区から南南東に「蓮如峠」があった。昔は、蓮如峠→加須良集落→越中(富
山県)桂集落→加賀(石川県)に抜ける道があったのである。1469~1486年(文明年間)
蓮如上人が白川郷加須良集落を訪れ、蓮受寺に休泊されたという言い伝えからこの「横谷
峠~蓮如峠~加須良集落」へ通じる道が古くからあったことが分かるのである。

 芦倉地区(庄川の東、右岸に位置する)

 椿原地区

 籠の渡し椿原
 椿原集落と芦倉集落の庄川に「籠の渡し椿原」があったのである。

 有家ヶ原地区(庄川の東、右岸に位置する)

 内ヶ戸地区
 椿原ダム建設により昭和13(1938)年までに離村、水没したのであった。

 内ヶ戸歩危
 内ヶ戸集落の北と南に「内ヶ戸歩危」があったのである。迂回路は内ヶ戸集落から西に
山を越えた、馬狩谷沿いを通行していたのであった。庄川沿いの絶壁の岸壁が削られ歩道
がかろうじて通じている道を、通称「歩危」といわれ、歩危を通行するのは難所で人々に
恐がれていた箇所であり、古くから人々の交通を妨げていたのであった。冬は迂回路を通
行していたのであった。

 <下田地区>白川村飯島字下田 現在、離村。

 下田歩危
 下田集落内に「下田歩危」があったのである。迂回路は下田集落から西にソウゾウ山(標
高951m)を越えた馬狩谷沿いを通行していたのであった。

 牛首地区(庄川から東にある)
 戸ヶ野地区の東から、牛首川をさかのぼると「牛首地区」があったのである。昭和27
(1952)年まで灯りはランプ生活であった。昭和28(19539)年に自家発電となり夜間のみで
も電灯の生活となったのである。昭和39(1964)年、離村。 

 芋井谷城
 牛首集落から東の牛首峠方面に「芋井谷城」があったのである。

 島地区(庄川の東、右岸に位置する)

 <戸ヶ野地区>白川村荻町字戸ヶ野(庄川の東、右岸に位置する)

 荻町(庄川の東、右岸に位置する)

 荻町城
 荻町集落の北の山に「荻町城」があったのである。

 電灯事情・ 
 昭和18(1943)年の大郷地区(荻町、鳩谷、飯島、内ヶ野、島、馬狩、大窪、野谷、大
牧、下田)の電灯は、計82戸が点灯したのである。戦後昭和20(1945)年で大郷地区総
戸数332戸のうち、ようやく182戸が点灯したのであった。その後昭和24(1949)年
末までにようやく全戸点灯となったのであった。一部の家屋を除く各戸はわずかに10W
1個の点灯であったが、これまで灯油ランプなどの乏しい光による生活を余儀なくされて
いただけに住民の喜びは格別であったのである。

 籠の渡し荻町
 荻町地内の庄川に「籠の渡し荻町」があったのである。不便で危険なこの籠の渡しは、
明治10年(1877)に廃止となったのである。そして明治25年(1892)までに吊橋に替え
られるようになったのであった。

 千蓋岩・
 荻町の南に「千蓋岩」と呼ばれた岩壁の絶景があったのである。

 天生峠

 天生(あもう)金山
 天生峠から東の岐阜県吉城郡(旧)河合村天生地区に「天生金山」があったのである。
金森時代の1600年代には稼働していたようである。

 月ヶ瀬村(は白川村ではなく、岐阜県吉城郡(旧)河合村)

 元田村(は白川村ではなく、岐阜県吉城郡旧河合村)

 横谷銀山 
 宝暦10(1760)年、飯島地区から西の横谷という谷に「横谷銀山」(飯島地区)があっ
たのである。

 横谷(川)
 飯島地区の西に馬狩谷があり、馬狩谷の西に「横谷」という谷があったのである。

 飯島地区

 飯島正蓮寺 

 卒塔婆峠

 鳩谷地区

 嘉念坊道場

 馬狩地区
 現在、離村。

 馬狩谷(川)
 飯島地区の西に「馬狩谷」という谷があったのである。

 大窪地区 
 現在、民家離村。現在、トヨタ白川郷自然學校がある。

 野谷地区
 昭和30(1955)年、鳩谷ダム建設により離村、水没となったのである。

 大牧地区
 昭和30(1955)年、鳩谷ダム建設により離村、水没となったのである。

 籠の渡し大牧
 大牧地区と荻町地区の庄川に「籠の渡し大牧」があったのである。この籠の渡しは、白
川郷の5ヶ所の籠の渡しのなかでは、のちに架けられたそうです。

 保木脇地区
 昭和15(1940)年までシツタカ橋の北に「保木脇集落」があったのである。昭和15年1
月29日、保木脇地区のシツタカ谷の北にあった集落に大雪崩が襲い、家々を埋め尽くし
て16人が圧死した大惨事が発生したのである。

 一軒家・
 昔、シツタカ谷南に「一軒家」と呼ばれた民家があったそうである。

 帰雲城趾碑
 天正13(1586)年の大地震で帰雲城と城下町が埋ったと推測される場所に「帰雲城趾碑」
が建っているのであった。帰雲城の屋形(城主の住まい、居館)は実際には、保木脇地区
の国道156号線の西から一段高くなった場所一帯にあったと推測されるのであった。

 皈雲山(1897m)

 平瀬地区

 平瀬歩危
 平瀬集落の北に「平瀬歩危」があったのである。迂回路は右岸、木谷を通行していたの
であった。また、平瀬歩危上の山道があるそうです。

 旧木谷橋・
 平瀬歩危南方から庄川の対岸(東)木谷地区への「旧木谷橋」があったのである。この
橋は、右岸の木谷地区へ渡る橋で、平瀬歩危の迂回路にも使用されたと考えられるのであ
る。岐阜県関係5万分1地形図、明治43年測図大正2年製版「白川村」(岐阜県立図書館
所蔵)に記してあり。

 平瀬発電所・
 平瀬地内に、大正15(1926)年11月に「平瀬発電所」が完成したのである。年号は昭和
になり、白川村ではまだ電灯のない生活であったが、平瀬発電所の代償として平瀬地区に
山間部としてはいち早く電灯(電気)が供給されたのであった。白川村の荻町地区、鳩谷
地区、飯島地区に本格的に電気が供給されたのは戦前、戦後であり、平野部に比べると数
十年遅れて電灯が点いたのであった。しかし、白川村加須良地区?や、白川村牛首地区、(旧)
清見村森茂地区には外部からの電気は引線されておらず、離村するまで自家発電(谷川を
利用した水力発電)の生活であったのである。

 御母衣地区

 大岩・

 <上洞地区>白川村大字御母衣小字上(あげ)洞
 現在、離村。

 八人塚
 御母衣小字上洞に「八人塚」という塚があったのである。この八人塚の民話は『白川郷
の伝説と民話』という本の102頁に、「上ヶ洞の八人塚 平家の落人たちは、遠く人里はな
れた山奥を選んで、仮小屋を作りかくれ住んでいました。はじめのうちは木の根・草の実
で生計をたてていましたが、次第に開墾地を広め、数年足らずで百姓仕事がすっかり身に
つくようになりました。さて、源氏方では平家の落人さがしに懸命で、どんな山奥へも家
来を回して探策にきます。ここは白川郷の山奥で、御母衣の上ヶ洞というところです。
 仮小屋を建て百姓になりきっている平家の落人の通称、太郎兵衛一家と、与惣衛門一家
と、平兵衛一家の3家で、それぞれ平和に暮らしを営んでいました。ある日のこと、この
山奥の仮小屋に、一人の小間物屋がやってきました。これは小間物売りに見せかけた源氏
の探策方なのです。最初に、太郎兵衛の家に入ってきて、しばらく小屋の中を迂散くさそ
うにみまわしていましたが、「荷物を少しの間置かして下さい。私はこの先に忘れ物をした
ので、取りに行ってきますから・・・」といってでていきました。太郎兵衛の奥さんはさ
すがに、侍の奥さんだけあって、源氏の探策方とみぬきました。きっと仲間を連れに行っ
たに違いない。今に多くの武士が押しかけてきて私たちを殺すに違いない。そこで奥さん
は、毒薬をせんじて待ちかまえていました。やがて、8人の武士がどやどやと太郎兵衛の
家に入りこんできました。太郎兵衛の奥さんは、慌てずゆっくりと、「まあ、お茶でも一杯
飲んで下さい」と用意の毒薬を進めました。8人の武士たちは、この奥さんの落着いた様
子に疑いを抱かず、お茶を飲んでしまいました。薬がきいて、武士たちは一人、やがて一
人と、8人全部が横になって眠ってしまいました。そこへ、与惣衛門、平兵衛一家がびっ
くりして集まってきました。一部始終を聞いて、太郎兵衛の奥さんの機転にみな感謝しま
した。8人の武士はいくら時間がたっても目がさめず、翌朝、8人とも冷たくなって死ん
でいました。太郎兵衛たちは早速、大きな穴を掘って8人をそこにうめました。そしてそ
の上に、大きな岩をおいて塚のようにしました。爾来幾星霜を経た今日、「8人塚」といっ
て大きな岩が残っています」
 現在、御母衣小字上洞の大戸(おおど)家跡から奥に八人塚があるのであった。

 牧地区

 木あげ場・

 牧橋・
 御母衣ダム堰堤北に右岸に渡る「牧橋」があったのである。

 木谷地区(庄川の東、右岸に位置する)

 <稗田地区>白川村大字長瀬小字稗田(庄川の東、右岸に位置する)

 長瀬地区(庄川の東、右岸)

 <貫見地区>白川村大字長瀬小字貫見(庄川の東、右岸に位置する)

 籠の渡し牧
 牧地区と貫見地区の庄川に「籠の渡し牧」があったのである。

 貫見橋・
 現在の「貫見橋」である。

 <秋町>白川村大字長瀬小字秋町(庄川の東、右岸に位置する)
 六厩川と庄川が合流する右岸南に「秋町地区」があったのである。昔、秋町に鉱山があ
った。御母衣ダム建設で使用する粘土と岩石を採取したのが秋町で、「通称粘土山」と呼ば
れていたのであった。昭和35(1960)年、御母衣ダム建設により離村、水没となったのである。

 秋町貫見橋・
 秋町の北から六厩川を貫見方面に架かっていたのが「秋町貫見橋」であったのである。
この橋は福島歩危の迂回路として、おもに使用されていたのである。

 秋町橋・
 尾神地区の保谷とう谷の北辺りから、右岸秋町に渡る「秋町橋」があったのである。こ
の橋は、大正から昭和の間に架けられた橋であった。

 七人塚
 秋町集落の田畑にアイヌ人を葬ったとされる「七人塚」があったのである。
「七人塚 食するに鳥獣の肉を以てし、着るに毛皮をまとい、野獣にも近い原始生活を
していた民も追々と我等の先祖の圧迫を受ける様になって、彼等にとってはじつに平和な
仙境も余り程変わってきた。そして彼等アイヌ人の部落を襲った我々の先祖によって、あ
るいはこの村から追い出されあるいは征服されてしまった。現に白川村長瀬小字秋町の田
畑になっている村の中央の地に昔から七人塚といい小高く土を盛りその上に石をもって墓
のようなものを作ってある。これアイヌ人七人を一緒に葬り、代々言い伝えて七人塚とと
なえる様になった」『飛騨の大白川郷』117頁

 旧秋町橋
 尾神地区の「のまみ」と呼ばれた場所から、対岸の秋町へ渡る「旧秋町橋」があったの
である。この橋は昔から使われていたようで、橋を渡り河原から耕地を抜け秋町集落へと
続いていたのであった。岐阜県関係5万分1地形図、明治43年測図大正2年製版「白山」
(岐阜県立図書館所蔵)に記してあり。

 まわら淵の橋
 尾神地区の「まわら淵」と呼ばれた西辺りから秋町へ通じる「まわら淵の橋」と呼ばれ
た橋があったのである。この橋は昔から使われていたようで、橋を渡り秋町地区の山へと
続いていたのであった。岐阜県関係5万分1地形図、明治43年測図大正2年製版「白山」
(岐阜県立図書館所蔵)に記してあり。

 秋町隧道・
 御母衣ダム建設で秋町地内に代替道路が設けられて森茂村方面へと至るトンネルが「秋
町隧道」であった。

 福島地区
 福島歩危の北に福島谷があった。この福島谷の北に「福島地区」があったのである。道
路の東側に1戸と、西側に3戸があったのである。昭和35(1960)年、御母衣ダム建設によ
り離村、水没となったのであった。

 福島橋・
 福島集落から北に、庄川右岸に渡る「福島橋」があったのである。

 福島城郭
 福島集落から南辺りに「福島城郭」があったという文献があり『白川奇談』に「尾神よ
り二三丁野間見村帰り雲山水つき込ける時川水此所まで湛えたりと云傳うぬまえける。ゆ
えぬまみという事なりとぞ。野間見とは申侍るこれより福島むらを過ぎて福島歩岐万仭の
高崩へ橋を渡し登り下る白川随一の難所にて内ヶ嶋家帰り雲の城郭の要害なり。歩岐を過
ると牧村なりこの川向うに秋町長瀬村有り」と記されているのであった。

 福島谷
 福島歩危の北に「福島谷」があり、福島谷の北に福島集落があったのである。

 通称ロック山・
 福島谷に御母衣ダム建設で使用する岩を採取した山が「通称ロック山」と呼ばれてい
たのであった。昭和34(1969)年10月28日、ダイナマイト爆薬98tによる最後の大爆
発がおこなわれたのであった。

 福島歩危
 福島谷の南に「福島歩危」があったのである。福島歩危上の山道はなかったのである。
現在の福島保木トンネル道の海抜が約770mで、昔の福島歩危の海抜は約670mでした。(比
高約100m)岩壁が削られ絶壁を縫うように歩道の辛うじて通じている歩危は、冬期の雪崩、
春や秋の大雨時の山の崩壊と土砂災害などが起きる魔の区間で土地の人はここを「福島歩
危」と言い、恐れていた。事実過去において白川村の住民が所用での帰り福島歩危で大き
な雪崩に遭い命を落としている。福島歩危の迂回路は、右岸の秋町に渡り、六厩川を北に
渡っていたのである。

 尾神地区
 17戸、昭和35(1960)年、御母衣ダム建設により離村、水没となったのである。

 下屋商店
 尾神分校の北に「喜十郎屋」という旅館兼雑貨店が1軒あった。日用品の購入に尾神地
区の人も利用したのである。また、森茂地区の人々も森茂から西に歩きこの商店や中野の
商店を利用したのであった。

 尾神分校
 尾神地区の保(ほう)谷の北に白川村平瀬小学校尾神分教場があった。大正12(1923)
年から授業を開始。昭和29(1954)年で廃校となったのである。

 ひけすりの瀧
 尾神地区の保(ほう)谷という谷から、福島歩危の間に「ひけすりの瀧」があったので
ある。『飛騨山川』406頁に「尾神川を渡れば白川村となす。小坂を上がりて尾神を過ぎ、
林間より秋町の部落を対岸に望む。先に六厩において別れたる谷川は今見上げる山の間よ
り上白川に落ちるなり。秋ならなくに釣瓶落しと暮るる山中の狭谷、煙靄いづくよりか起
りて遠岳より包み始め、清冷の風、汗にぬれたる襯衣に迫るところ左の崖に「ひけすり」
の瀧を見る。滝前の樹林あまりに参差して観賞を防ぐ。風物荒涼たる福島保木にかかる。
ただ見る断崖を割きてわずかに路を通ずるもの五六丁、仰げばさく岩突こつとして頭を
圧し、辛ふじて岩隙に根をたくせる樹草は倒懸す。ふせば河水洶奔(きょうほん)して崖
脚を噛み壁落したる累岩自ら崩る」と記されているのであった。

 保谷
 福島歩危と、尾神集落の中間に「保(ほう)谷」という谷があったのである。

 のまみ
 保谷と尾神集落の間に「のまみ」と呼ばれた場所があったのである。

 沼江の長者
 白川郷の民話に「沼江の長者」というのがあり、『飛騨の大白川郷』119頁に、「沼江の長
者 今は昔、白川村尾神沼江に長九郎と呼ぶ長者があって、家業は材木商を営み木材を川
に流して金澤方面に売却して一代に富万の富を成していた。当時はお上の命令では欅(け
やき)は一切伐採してはならぬ事に定められていた。所がこの人は役人の目を盗んで欅材
を切ってネレの木だと欺(あざむ)いていたが遂にこの事が役人の耳に入って荘川村海上
で「拷問」に上げられることになり今や刑場の露と消えん時「我屋敷の周囲に黄金を入れ
た壺を埋めて置いた白い鶏が出て鳴いたらその所を掘れ」と言って他界した。その頃村人
は「野上長九郎狐の生か、金が加賀からコンコンと」と歌ったと云うことである。現在こ
の人の屋敷や土蔵跡、墓地が残っており、海上の地内には「拷問場」と呼ぶ地名が残って
いる」と記されているのであった。

 じょうがさま
 尾神集落の人が「じょうがさま」と呼んでいた独立した小山があったのである。

 まわら淵
 尾神集落から北北東の庄川が逆Uの字に回りこんでいる場所を「まわら淵」と呼んでい
たのであった。

 御神鉱山(尾神銀山)
 尾神集落の西の日照岳から西南西に約4.6Kmの頂上(1734m)付近に御神鉱山があったの
である。この鉱山は1800年代の古地図に「銀山」と記してある。「銀山」と記した古地
図は、「飛騨国全図」天保3年(1832)中洲美郷(岐阜県立図書館所蔵)に記してあり。「御
神(尾神)銀山」は、岐阜県関係5万分1地形図、明治43年測図大正2年製版「白山」(岐
阜県立図書館所蔵)に記してあり。

 くろ淵
 尾上郷川と庄川の落ち合う附近に「くろ淵」と呼んでいた場所があったのである。

 であい・
 尾上郷川と庄川の落ち合う場所を「であい」と呼んでいたのであった。

 尾上郷川
 御母衣ダム湖から西の上流に延びるのが「尾上郷川」であった。尾上郷川から西の峯越
峠を越えると石徹白地区へ出て、北陸へ通じる「裏街道」であったのである。
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 片野金山
 岐阜県大野郡(旧)清見村池本字片野地区に「片野金山」があったのである。伝承では、
寛永年間(1624~1643)郡上の白鳥から移転した又右衛門が片野地区にきて、谷にはいり金
坑を開いたとされる。

 森茂峠 
 岐阜県大野郡(旧)清見村

 森茂金山
 金森時代の1600年代には稼働していたようである。正保元(1644)年の「飛騨國絵図」
に、森茂金山、神瀧(上滝)金山、片野金山、六厩金山が記してある。宝永5(1708)年、白
川郷森茂村の小沢金山を開坑している。

 森茂村
 森茂川の北に「森茂村」(海抜約905m)があり、三ノ谷という谷の東に集落があったの
である。集落東の道路北に森茂分校とグランド、集落中央の道路北に神社、集落から南西
の三ノ谷と森茂川が合流する場所西に白山神社(934m)があった。明治以前まで白川郷「森
茂村」であった。それから明治になり岐阜県大野郡清見村森茂に編入されたのである。森
茂村には外部からの電気は引線されておらず、離村するまで自家発電(谷川を利用した水
力発電)の生活であった。

 森茂村の自家発電所・
 「自家発電所」(谷川を利用した水力発電)は森茂集落の西にあり、森茂白山神社から北
北東の位置になり、三ノ谷という谷の東に自家発電所があったのである。電気は、L型鉄
柱の上部をT字にし、絶縁碍子を2個使用して電線で各戸へ送電していたのであった。

 森茂川
 岐阜県大野郡(旧)清見村森茂

 六厩地区
 旧荘川村六厩地区に「六厩砦」があったのである。

 六厩金山
 旧荘川村六厩地区の北西5Kmの六厩川左岸、西ヶ洞の中腹に坑口があったのである。金
森時代の1600年代には稼働していたようである。「飛騨国もまいと申す金山に御座候。
 げん屋と申す御坊主檀那に御成候、もまい金山衆一人宛も御引付申可給候との御坊主に見
候、此六月に御参宮銀壱枚被給候」尾張国津島神社の御師の家に伝わる記録「大吉御檀那
帳」の慶長14(1609)年の記録より

 六厩川
 (旧荘川村六厩)

 六厩川橋
 白川村長瀬大字秋町の北東境界の六厩川という川に架かる橋が「六厩川橋」で、あった。
 御母衣ダム建設で森茂村方面から秋町に通じる代替道路で、トラックが通行できたりっ
ぱな吊橋であったのである。

 
 岐阜県高山市荘川町(旧荘川村)

 白川村の民家は切妻(合掌)造り屋根が占めていたが、旧荘川村では入母屋寄棟造りの
茅葺屋根が多かったのである。

 尾上郷地区
 尾上郷地区への道路は海上地区の営林署貯木場から尾上郷川という川に沿って西の山中
へカーブを描きながら巾の狭い道が続いていて、歩いて30分程であるが往来には困難で
あった。しかし、この地には海上貯木場から営林署経営の森林軌道があって、ディーゼル
の気動車が通っていた関係から人々はこの軌道上を歩いたり時には気動車の引くトロッコ
に便乗させてもらっては尾上郷地区へ行き来したものだ。軌道は深い谷川を見下す位置、
平坦地、森林の間を縫うようにして走り、ゆっくりと進むトロッコの上からの景色の眺め
は言葉で言いつくせない程の景観であった。この軌道は原生林のブナ材やヒノキ、杉など
の官材搬出に重要な役割を果していた。尾上郷は山あいの開けた平地であった。戸数は2
戸だけであり、周囲一帯の豊かな山林や田畑をこの2戸だけで有し豊かな生活をしていた。
 特にこの地は山菜とアマゴ、岩魚(いわな)の宝庫でもあり、尾上郷川の支流にはアマ
ゴ谷と呼ばれる谷川もあって魚のいることを実証していた。だから校下の人々は競って山
菜や川魚を取りに出かけて行ったものである。又、秋から冬にかけては尾上郷の奥地には
熊が生棲していたので、多くの狩人が泊りがけで熊の捕獲に出かけていったものだった。
 昭和35(1960)年、御母衣ダム建設により離村、一部水没区域となったのである。
 平成10(1998)年8月15日、埼玉県の飛行場から飛び立ち、大阪府八尾空港へ向った個
人所有の小型飛行機が、白山連峰の別山附近でレーダーから消え、墜落した可能性が高く
なった。高山警察署では白川村平瀬に対策本部を置き、白山救助隊、警察、消防団、自衛
隊が出動して捜索を開始した。連日の雨で捜索は難航したが、18日に自衛隊ヘリコプタ
ーが尾上郷地内、三ノ峰山附近で墜落している機体を発見し乗員2名の死亡を確認した。
 しかし、悪天候が続き遺体収容は20日になった。この事故での出動人員は警察官延3
01名、消防団員延237名、ヘリコプターは3機でフライト回数は30回にも及んだ。

 平家岩屋・
 その昔、荘白川一帯は平家の落武者がこの地に逃れて拓り開き住みついたという説が残
されている。地区より約12Km程上流の山中にはいると「平家の岩屋」と呼ばれた所があ
る。この岩屋は溜め池になっており山越えした落武者がここで馬の足を洗ったとされている。

 だんご谷・
 アマゴ谷に注ぐ小さな谷川のひとつに「だんご谷」という川があった。この川にある石
はそのほとんどがだんごの形をした小石ばかりごろごろと転がっていたことから人々はこ
う呼んで親しんでいた。

 林の平・

 はやし・

 女神さま(へび神)・
 尾上郷の人たちの唯一の守り神、女神さまが東の一角にあった。小さな祠の中に手の掌
にヘビをのせた美しい女神さまが一体祀ってあり、両家の人たちは正月とお盆に酒やご馳
走などを供えて祈願していた。

 鍛冶屋跡
 家と田のはずれ、西側の尾上郷川に面した一角に「鍛冶屋の跡らしい」ものがあった。
 そのむかし、この地で製鉄を手がけたのだろうか時々土中から鉄片を掘り出すことがで
きた。そうした事からこの附近を鍛冶屋と呼んでいた。

 五枚田・
 尾上郷は水上谷という谷を境として川北は畑、川南は田が一面に広がっていた。この五
枚田という地名はこの地を開拓した先人が最初に手がけた田の数の名残りである。その後
は開拓が進み1戸で一町歩以上の田を有して農耕に従事していたのである。

 下の瀬・
 尾上郷地区の尾上郷川の北に「下の瀬」と呼ばれた場所があった。

 海上地区
 宮谷という谷を境として北の方向尾上郷川に至るまでが「海上地区」であり、南北に直
線道路がやや西側に位置している場所を「上海上」と呼び、東側一帯を「下(した)海上
と呼び田畑が広がり周囲の山にはヒノキや杉が群生しており道路に沿って58戸の家屋が
点在したのどかな山あいであった。海上地区は通称「上海上」と「下海上」の小字区に分
かれており、北端には荘川営林署尾上郷貯木場と官舎が建っていた。昭和35(1960)年、御
母衣ダム建設により離村、水没となったのである。

 上海上・ 
 国道を中央に南北に広がる平地で、平地としての面積では荘川村では第1位であった。
 土地の大部分は田畑で一反田、ニ反田と呼ばれた田が整然と区画されており農耕には大
変便利であった。集落の多くは道路沿いにあってだいたい3ヶ所に集中しており上、中、
下というような様相で2階建ての家々が軒を並べていた。大部分の家は分家又は他地域か
ら移住者が多く、下海上に比べて新しく開けた土地柄であったが、人々の結びつきは固く
人情豊かな人々であった。海上地区の鎮守さまは上海上の一角にあって神明神社と呼び大
事な守り神であった。たま、上海上には荘川営林署の貯木場があってこれより北西の方向
に森林軌道が大日岳の麓まで延び、多くの原木を搬出しており林業に従事する人々でたい
へんな賑わいを見せたものである。

 下海上・ 
 「下(した)海上」は上海上より河岸段丘の5~6m低い位置にあり道路は大谷という
谷の横を国道から東の方、庄川へ向ってなだらかな「日谷の坂」を下り、地区の中へ通じ
「久七坂」を上がって上海上に通じていた。一面が田畑であり海上の旧家の殆んどがこの
地区に集まり13戸の家々が広い敷地の中に悠然(ゆうぜん)と建ち並んでいた。
 この地は庄川が運ぶ上流の土砂が数世紀にわたって堆積して出来た河成平地であり、砂
粒を多く含んだ土地のおかげで素足で歩き回っても痛くはなかった。田畑は有機質を含ん
だ肥沃な土質に恵まれ多くの収穫をあげることができた穀倉地帯でありまったくの別天地
であった。又、この地は庄川の伏流水の影響で至る所に清らかな湧き水(清水)が出て、
飲料水はもとより農作物の育成に役立った。そのほか、この豊富な水を利用して唐臼に使
ったり魚の保護養殖にも目を向け淡水魚の養殖も行われ、海上孵化場と呼んだ施設もこの
下海上にあった。

 旧尾神(上)橋・ 
 尾神地区と海上地区の尾上郷川に架かる橋が「旧尾神橋」であったのである。現在の尾
神橋から東に旧尾神橋が架かっていたのであった。

 日崎城 
 海上地区の北端に小字ヒサキという地名があり、ここに「日崎城」跡があったのである。
 文献の『斐太後風土記 卷之九 大野郡白川郷海上村』273頁に「日崎 海上村の北の方に
上白川と龗(れい)河との水の落あう川股にて三町許もさし出たる洲觜(くちばし)な
り。そこを日崎という。松林ありて海の崎に髣髴(ほうふつ)たり口碑に伝えたるには古
しへ何国の落人か来たりて住居せし跡にて塀(へい)と堭(からほり)との跡残りたりと
ぞ尾神村に直に對へる出崎なれば天正の頃までは尾神備前守もここに住し跡ならむか」と
記されているのであった。

 ひさきのむっくり、こっきり・ 
 上海上の北端に「ひさき(日崎)」と呼ばれた地域があったのである。この辺り一帯には
壕(ほり)跡が点在しており武家屋敷があったのではないかと想像ができる。人々はこの
壕跡が凹凸した地形をしていたことから、「むっくりこっきり」と呼んでいたのである。

 カラス貝(みがい) 
 (鳥貝)イシガイ科の2枚貝で長さ15センチほどもある黒褐色を帯びた淡水に住むカ
ラス貝が、「貝が淵」からそれに流れ込む用水路一帯に棲息していたのである。この貝は何
処から来たのか不明であったが、この地域にしかいなかったことは大変めずらしく、この
貝を食用にすると大風が吹くという古老の話を忠実に守り、人々は決して食用にしなかっ
たのである。地元ではみ貝と呼んだ。この貝は現在でも湖底で生き続けていることだろう
か。

 貝が淵 
 カラス貝が生息していた用水路から庄川に流れ込む場所を「貝が淵」と呼んでいたので
あった。

 聖殿遺跡と金仏さま 
 下総の国、千葉小次郎「成正」という人が善俊上人の徳を慕って海塩(海上)の里へや
ってきた。そしてその弟子となり名を「浄正」と改め、この地に聖殿を建てた。それが堂
守である。その後この辺り一帯が洪水になり、聖殿は一瞬にして流出したのであるが、人々
はその跡に「聖殿碑」を建立して永く霊を慰めていた。又聖殿の中に安置されていた金仏
様は幸いにして下流の富山の人によって見つけ出され、富山県の某寺に現在も安置されて
いるようである。(この聖殿碑は高山市下岡本町の「願生寺」に移され境内の一角にその碑
を見ることができる)

 聖殿遺跡碑 
 浄正から9世の願誓の時、向牧戸城主、川尻備中守氏信は願誓のため海上村に一宇を建
立したのであった。これを「聖殿」と呼んだ。のちの願生寺である。

 孵化場・ 
 上海上の北辺りから下海上へ通じる久七坂と呼ばれた坂があった。この坂を下ると三叉
路があり、三叉路の南に「孵化場」と呼ばれた場所があった。昭和4(1929)年、庄川下流の
富山県内に小牧ダム、祖山ダムの完成により、庄川上流に棲息していたマス、ハエ、鮎、
ウナギ、イワナ、アマゴ、コイ、ウグイ、あじめ、アブラハヤ、カジカ、どじょうなど大
漁の漁獲量がなくなり、河魚族が全滅となった。このため、移植及び孵化放流へ変更せざ
るを得なくなり、庄川上流魚族増殖を計る目的で海上地内に「県立庄川水産増殖場」が昭
和6(1931)年に完成したのであった。ここで移植及び孵化放流した魚種は、ます、アマゴ、
鮎、ウナギ、マスなどであった。昭和34(1959)年、御母衣ダム建設に伴い庄川水産増殖場
は水没地区となり、自然廃止となった。(庄川漁族繁殖孵化場)

 くぐり場・ 
 上海上の貯水場から西へ尾上郷地区へ通ずる山道に通称「くぐり場」と呼ばれた場所が
あった。このくぐり場とは俗にトンネルのことだが、道路工事のとき山腹の岩石に穴をあ
けて人々の往来に便利にしたものであり、人々がこの所をくぐり抜けたことからこうした
呼び方で親しんだものである。尾上郷地区の人はもちろん、どれだけ多くの人々がこのく
ぐり場を通ったことだろうか。懐かしい地名のひとつである。

 獄門場・ 
 上海上の貯水場附近に「獄門場」と呼ばれた地域があった。この名が示すことから江戸
時代から以前にかけて武家社会の頃、罪人を処刑した場所ではないかと思われる。

 比丘尼屋敷 
 上海上の一角に「比丘尼屋敷」と名づけられた地所があったのである。この比丘尼には
2説があるが、この地はどれに該当していたか不明な点が多い。何れにしてもこうして名
づけられた屋敷跡があったことは確実のようである。註:比丘尼とは具足戒(物事を十分
に備え得度を授かった人)を受けた尼さんが出家してこの海上に屋敷を構えて信仰を深め
た。もう一節は尼さんに紛した女が下級武士を相手をしていたその屋敷跡となっているが
事実は不明である。

 貧乏谷・ 
 上海上との境の土堤から流れ出る小さな谷川があったのである。この谷は雨天時には少
量の水が流出するが、それ以外は一滴も見ることができなかった。人々は名づけて「貧乏
谷」と呼んでいたのである。

 沢の平・ 
 次郎衛門家の裏手(西)に貧乏谷という小さな谷川があった。この谷川の北辺りが「沢
の平」と呼ばれていたのである。

 逆銀杏と弘法さま・ 
 次郎エ門家の裏手の一角、「沢の平」という場所に「逆銀杏(さかさいちょう)」と呼ん
だ一本の木と弘法さまを祀った祠(ほこら、石仏)があった。この銀杏木の枝は正常の枝
ぶりと違ってやや異常であり、天空に向って延びず逆方向、つまり地面に向って延びてお
り垂柳(しだれやなぎ)に似た様相をしていた。人々はこの風変わりな銀杏を逆銀杏と呼
んで大切にしていたが、それには次のような伝説があって人々に感銘を与えていた。
 「全国を行脚して人々に救いを与えた弘法大師(空海)がこの海上の地にもお立寄りに
なった。その時、持っておられた杖をお立てになったその場所から湧き水がこんこんと流
出し、その杖が銀杏に変じたと人々は信じた。杖の握り手部分が下向きだったので銀杏の
枝も下向きに生育したのだと」また、下海上が湧き水が至る所に噴出するのは弘法さまの
お蔭だと信じてこの銀杏と湧き水附近にある石(弘法さまの尻あとがあるとされている石)
を永年大切に保存して弘法さまに感謝したものである。(下海上にあった弘法さまの祀と銀
杏の株に弘法さまの姿を彫りこんで、岐阜市加納の弘法さまに合祀していただいている)

 牧野橋(海上橋) 
 海上地区の北から右岸に渡る「牧野(ぼくや)橋」と呼ばれたつり橋が架かっていたの
であった。この橋は昔から使われていたようで、この橋を東に渡ると浅谷という谷がある。
浅谷の南に「梨木沼」があった。浅谷を北に歩くと秋町地区、森茂地区へと通じていた。
この浅谷一帯は家畜の飼料となる野草の宝庫で海上地区の人々にとっては大事な採草場
となっていた。牧野橋という名もこうした牧畜に関係して付けられたようで当時の状況が
懐かしく思い出される。

 小牧の風穴・ 
 海上地区の庄川の対岸(東)、右岸の山裾、小牧(巻)と呼ばれた附近に大きな「風穴(洞)」
があったのである。この穴は大人が楽々と出入りできる程の高さであり、何処からともな
く風が洞外に向って吹いていた。夏涼しく、冬暖かいこの風穴の自然現象をうまく利用し
て、蚕卵の保存、祭礼用神酒のドブロク、農作物の芋類、大根、ニンジンに至るまでの貯
蔵庫として大いに活用したものだった。

 聖殿淵 
 牧野橋の南に「聖殿淵」と呼ばれた淵があったのである。

 小牧(巻)・ 
 「聖殿淵」という淵の上流(南)に「小牧」と呼ばれた場所があったのである。この場
所は比較的流れが緩やかな事と、日照時間が長かったことから夏季には水に親しんだ子た
ちにはきっとこの名に懐かしみを覚えることだろう。

 橋場家 
 下海上に、切妻合掌造り屋根の民家があったのである。(旧)荘川村で切妻合掌造り屋根
の民家は、海上地区橋場家、森下家、小林家と、牛丸地区渡辺家と、下滝地区若山家の計
5軒であった。(旧)荘川村にあった切妻合掌造り屋根の民家は珍しいのであった。

 森下家 
 下海上に、切妻合掌造り屋根の民家があったのである。

 小林家 
 上海上に、切妻合掌造り屋根の民家があったのである。

 荘川桜・ 
 宮谷という谷の北の海上地内に「荘川桜」がある。御母衣ダム建設で水没するはずだっ
た中野地区の照蓮寺と光輪寺の桜は、当時高山市内の材木商に売却済になっており、やが
て木材として伐採されることになっていたので、早速これを電源開発が材木商から買い戻
して、現在の「荘川桜」の場所に移されたのであった。
 昭和35(1960)年11月15日、中野の照蓮寺(海抜約721m)と光輪寺の2本の桜の移
植作業が開始されたのであった。老桜を移動運搬に要する鉄骨や鉄板の機材や人力は、御
母衣ダム本体の工事をしていた間(はざま)組が申し出た。ブルドーザー3台を使用して
運搬のための道を作り、鉄ソリを作り巨大クレーン車2台を使用してコロの上をころがし
て引っ張り、作業員延べ500人余りがこの作業を手伝った。昭和35(1960)年12月24
日、海上地内の湖畔(海抜約766m)に2本の桜の移植が完了した。日数は掘り起しから植
え付け完了まで35日間を要したのであった。

 宮谷 
 海上地区と、中野地区のおおよその境界が「宮谷」という谷であった。(宮谷の北に現在
の荘川桜2本がある)

 中野地区 
 中野地区は、中野上・中野・下中野・下村という地名で呼び、分かれていた。中野には
商店が集中しており、診療所、駐在所、公民館、荘川村農協中野支所、中野郵便局、消防
分団、営林署、寺院等があった。食肉店2、雑貨店4、飲食店7、旅館5、酒店1、自転
車店2、理容美容店、カフェ店、パチンコ店が国道をはさんで相対しており、山深い田舎
町といった様相をしていたのであった。
 中野地区の道路は巾6m程あって、中野郵便局附近で大きく西にカーブしていた。中野
地区の国道に沿ってもう一本旧道が南北に続いており、途中からなだらかで一部石だたみ
みを施した坂道が東の方向にのびて「下中野」へと通じていた。この道を進むとやがてふ
じがすり淵に至り更に庄川に架かるつり橋を渡って「向かい」へと通じていた。
 通称下村(4班)作五郎から秋良家までの戸数30戸。
下中野(3班)旧道沿いの大沢春一家から吉田家までと、「下中野」を含む23戸で旧家
が多く昔の道であった。
 中野(2班)小椋家から林家までの15戸の中野中央部で、国道沿いに商店が集中して
おり、校下民にとっての日用品、食料品等を購入するのに大切な地域のひとつであった。
 中野上(1班)はかせが野の神田家から学校へ通じる道路まで25戸があった。昭和3
5(1960)年、御母衣ダム建設により離村、水没となったのである。

 一之宮神社・ 
 宮谷という谷の南に一之宮神社があった。長享2(1488)年、照蓮寺10世明心が中野村に
一宮水無神社を勧請して創建したと伝えている。天正17(1589)年、照蓮寺13世宣明のと
き、鎮守一之宮神社を再建した。例年9月10日、五穀豊穣の祭礼が一之宮神社の境内か
ら聞こえてくる。舞台小屋は上屋家と若山家の間に西へ通じる道路があり、その奥に公民
館と相対して一之宮神社の舞台小屋がありここで芝居を上演した。人々は重箱のご馳走を
持参し、芝居を見ながらの飲食、祝宴「よう、まっていました」の楽しい野次をとばしな
がら、一方道路の両側にボンボリの灯りがはいると夜店がズラリと並び祭り気分を一層引
き立ててくれた。

 ふじがすり淵 
 じがすりのつり橋の北に庄川の曲がっている場所を「ふじがすり淵」と呼んでいたので
ある。夏になると鮎の友釣りの好場所のひとつになっていたのであった。

 ふじがすりのつり橋(向いへのつり橋) 
 ふじがすり淵の南に架かるのが「ふじがすりのつり橋」で、巾1,5mほどのワイヤー
つり橋で、昭和に架けられたつり橋であった。このつり橋を東に渡ると「向い」と呼ばれ
た場所があり、中田家があった。

 ちゅうちみ・ 
 宮谷という谷と下中野を通る用水路がふじがすり淵手前で合流して庄川に注ぐその付近
を「ちゅうちみ」と呼んでいたのであった。この地域にはこのほかに、「此の間」、「どろわ
ら」などと呼ぶ地名があった。

 たて石・ 
 下中野の一角に「たて石」と呼んだ学校の指定水泳場があったのである。長い淵で上流
は深く、下流になるに従って浅く長さ30m、巾20m程あり自然が備えてくれたすばら
しい水泳場であった。川の中央に小山のような岩石が一個あって子どもたちの甲羅ぼしに
恰好の石でありこの石がたて石の象徴でもあった。

 牛の池(照蓮寺) 
 飯島村正蓮寺が焼け落ちた後、寺を再建することになり大杉を赤牛に曳かせて、その牛
が止まった所を寺屋敷にしたという伝承があり、その牛が中野村で止まった場所に再建し
て照蓮寺となった。この牛の止まった位置に大きな淵(池)があったことから、この池を
その後人々は「牛の池」と呼んでいた。池は三角形に似た約5~6m程の長さで周りは湿
地であった。

 中野郵便局・ 
 照蓮寺前(東)に「中野郵便局」があった。昭和13(1938)年、荘川村中野に中野郵便取
扱所が新設された。昭和35(1960)年、御母衣ダム建設により水没のため廃局となった。

 照蓮寺(中野御坊様)
 老桜・ 御母衣ダム建設により水没するところを逃れ、現在の「荘川桜」の場所に移さ
れたのである。樹齢は400年とも、500年ともいわれる。
 千重のつつじ・ 
 たいこ楼(堂)・ 上の小さい建物の中に大きな太鼓が吊るしてあり、昔は、寺参りや村
の集まりや、朝昼夕方の決まった時間の合図にその太鼓を叩いてみんなに知らせたそうだ。
 ご門・ この門は普段から閉まっており、「開かずの門」と呼ばれいた。
(昭和31(1956)年6月、重要文化財に指定され、高山市城山公園の一角に移転し、現在
国重要文化財に指定)

 嘉念坊善俊御墓 
 永正元年(1504)に照蓮寺南西の丘に移し奉ったと云われる。照蓮寺から南西100m余り
の丘上に始祖嘉念坊善俊上人の墓がある。この墓は鳩谷地区から土と共に運んだものと云
われている。

 中野小中学校 
 明治19(1886)年に小学校教育令が出て初等科3年だけの簡易小学校が光輪寺近く営林
署官舎に地にあった。その後、明治23(1890)年に尋常4年までの中野尋常小学校となり明
治35(1902)年4月から秋町、尾神の児童もこの中野学校へ通学することになった。明治4
3(1910)年4月に五間に十一間の2階建て校舎が、光輪寺前の道路東側、かんこ淵のすぐ脇
に建てられた。その後、増改築を重ねながらかんこ淵脇に昭和28(1953)年7月まであった
が、昭和22(1947)年4月から学校令によって新制中学校が設置された関係から校舎がせま
くなり、昭和28(1953)年の夏休みを期して校舎の移転、新築が行われた。
 かんこ淵のすぐ脇にあった小学校校舎は、土台ごと大型ジャッキで持ち上げその下に丸
太を敷き詰め、コロの原理を活用してやはりジャッキでじわりじわり押しながら道路を横
切り、光輪寺庫裡前の田や畑の中を数日かけて移動していった。新築は、ヒノキ造りの中
学校舎と村一番のりっぱな講堂が新築、小学校は旧校舎を移転改造して教室9、特別教室
4、職員室、校長室等が完成した。大正13(1924)年、中野尋常高等小学校、昭和14(1939)
年に荘川村第3国民学校と校名が変更している。
 なかでも昭和28(1953)年の校舎移転改築時は御母衣ダム反対の最中であり人々に大き
な動揺を与えたが、力強い意志と願望によって多くの人たちの惜しみない勤労奉仕により
校地の整地をはじめ諸施設の整備に至るまで強力しあってりっぱに建築の完工を終えたの
である。しかし、この思い出多い学校もついに御母衣ダム建設による家屋の移転と共に在
学する子どもたちの減少によって昭和35(1960)年10月28日、学校を閉鎖し長い歴史に
終止符を打ってしまった。最後まで残っていた十数名の子どもたちは涙を流しこの校舎を
去っていったが、この学舎の姿は永久に見ることはできないのである。
 昭和35(1960)年秋も深まった11月18日、校舎取壊し作業が開始され遂に人々の汗の
結晶である土台のみを残して完全にその姿を消してしまった。学校は言うまでもなく校下
民にとっては一番大切な公共的建物であり、青年団、婦人会、消防団をはじめ各地区の諸
会合、各種団体の協議、慰労の場であった。

 光輪寺 
 (岐阜県関市清蔵寺地内に移転し、今もその美しい堂を見ることができる)
 老桜・ 御母衣ダム建設により水没するところを逃れ、現在の「荘川桜」の場所に移さ
れたのである。樹齢は400年とも、500年ともいわれる。

 林旅館(林芳美)・ 
 中野郵便局から南へ4軒目に「林旅館」があった。林旅館は、宿屋飲食店として明治中
期(1890)頃できたのである。交通不便であった荘川村では昔から自給自足の生活で、物
を売ることなくもっぱら生活に必要最小限度の物品を他より買い入れる一方で、それがた
め現金収入をめざして養蚕や木材搬出の労働があった。特に雪のため長い冬を過ごす準備
として、越冬物資の買い入れをしなければならなかった。明治19(1886)年、新渕地区で山
下岡太郎が飲食店の営業をはじめた。大正5(1916)年頃には日用雑貨のなんでも屋といわれ
る小売商店が荘川校下に1~2軒出来たのである。

 旅館東屋 北林家、御料理松葉 丸山家、喫茶と御料理なかだ。
 その昔、奴さんと呼んだ芸者さんまでいて、夜になると威勢のいい声やお囃子(はやし)
が旅館から聞こえていたそうだ。

 唐臼小屋・ 
 西側の山の中腹を蛇行しながら延々と流れる用水路、この豊富な水と谷川から流れ込む
水とを利用して、光輪寺、旧営林署官舎の近く一帯に多くの「カラウス小屋」が斜面に点
在していた。水船に水を受けて、ギーコー・ザァー・バタンと規則正しく臼をつく音が昼
夜を問わず聞こえていた。その景観とまわりの静けさを破って聞こえるカラウスのひびき
が平和でのどかな山村風景を描き出しており、今に至るも忘れることができない。

 たがたの原 
 中野の南西の一角、山道を少し登りつめると樹木などなく一面すすきの丘陵地があった。
 この辺りを人々は「たがたの原」と呼び親しんでおり、場所によっては山菜のわらび、
山栗が至る所にあって山菜摘みや秋の栗ひろいの姿をよく見受けた。たがたの原からの谷
川が、かんこ淵近くに流れ込んでいた。

 茅場・ 
 すすきの野原で細いのは馬小屋に使い牛馬の下敷きにして踏ませ肥料とする。これを「く
さがら」といい、太いのは茅として屋根に使用した。(茅葺屋根)

 代官屋敷跡 
 光輪寺の前(東)に「代官屋敷跡」があり、石徹白彦右衛門長澄は越前大野の城主金森
長近の家臣で天正のころ長近に従って飛騨へ攻め入り、平定後功によって白川郷および小
鳥郷を賜りここに屋敷を構えていたが、慶長元年に伏見で病死し嫡子がなかったので僅か
にして断絶した。字名に「代官屋敷」という地名が残っている。

 旧中野小中学校跡 
 明治43(1910)年4月に五間に十一間の2階建て校舎が、光輪寺前の道路東側、かんこ淵
のすぐ脇に建てられた。

 かんこ淵 
 あじめ河原の北に「かんこ淵」と呼んだ気味の悪い淵があった。この淵の周囲は木立で、
昼間でも日光をさえぎりうす暗くそのうえ5m以上という深さで渦巻く気持ち悪い場所だ
ったので、人々はこの淵へは寄りつかなかったので、淵には50センチ以上の大きなウグ
イ、 岩魚、アマゴなどがわが者顔で泳いでいた。それを勇気のある若者は潜ってはわしづ
かみしてきたものだった。

 あじめ河原・ 
 庄川に架かる赤谷橋の下流(赤谷橋の北)に「あじめ河原」と呼んでさして広くはない
が砂が堆積した河原があった。川岸には大きな栃(とち)の木などがあってそれが日陰の
役目をしており、水遊び、魚取りに好都合な場所だった。この河原附近の流れは比較的ゆ
るやかであり、アジメと呼ぶ小魚が生棲しており、そのアジメを捕るのに、よもぎを根ご
と引き抜き根についている土を洗い落とし一番長い根にひっこくりという輪を作っては、
アジメを捕獲して遊んだものだった。また、この付近は一段あがった場所が平地だった地
名を「巻」と呼んでいた。

 網打場・

 せいば・

 河合重左エ門屋敷跡 
 はかせがのと呼ばれた場所に河合重左エ門の「屋敷跡」があった。字名に「甥殿屋敷」
という地名が残っている。

 はかせがの・ 
 下滝地区からの旧道と新国道に囲まれた地域に「はがせがの」と呼ばれた場所があった。
 昭和30(1955)年頃まで戸数は2戸であったが、その後家が建ちはじめ7戸と増加してい
った。はかせがの上(西)辺りが現在の「ドライブインみぼろ湖」である。

 ひきまわし・ 
 旧岩瀬橋の東の庄川の曲がる川幅の狭い場所を「ひきまわし」と呼んでいた。木材の流
送がスムーズにいかないためこの辺りで鳶口を使って木材をひきまわしたことからこの場
所を「ひきまわし」と呼んでいたのである。

 旧中野橋S22 
 牛丸地区から鳩谷間の道路改修工事がなされ、昭和22(1947)年に「(旧)中野橋」が完
成したのであった。

 中野橋S28 
 「赤色のトラス式中野橋」で御母衣ダム建設用トラック等が通れる強度があり、ダム完
成後に解体できるようボルトネジ締め式の橋が昭和28(1953)年に架けられたのであった。

 旧岩瀬橋 
 岩瀬地区の矢箆原家(岩瀬佐助)から北の庄川に「旧岩瀬橋」があったのである。この
橋は昔からあり、天正13(1585)年8月、羽柴秀吉の命で越前(福井県)大野城主、金森長
近率いる軍3000人が飛騨攻めを行った際、大野城を出発した金森軍は2隊に分けた一
方の金森長近隊は石徹白村から白山の峯越峠を越え尾上郷川から、海上村、中野村へと進
んで岩瀬村に渡る旧岩瀬橋で帰雲城主内嶋氏の家臣、尾上備前守氏綱隊によって「岩瀬橋
の攻防戦」があったのがこの「旧岩瀬橋」であった。文献には、金森長近隊は岩瀬橋を攻
略できず引き返したとある。もう一方の金森可重隊は白鳥町から北上し、野々俣村から向
牧戸城を2隊で挟み撃ちして攻略するはずだった。
 天正13(1585)年、岩瀬村の項「欄干(てすりつき)橋 幅長[照蓮寺記]慶長中所誌に、
内ヶ嶋兵庫頭氏理の家臣、川尻備中守氏信、降に金森尚書法印に、即為に郷導士、天正1
3年秋7月、經にて濃飛の封繮布俣口を、将に既に征入んと、氏信の同僚、尾上備前守氏
綱、岩瀬橋に於いて支え、不能容焉、決然帰矣、更8月の初、云云、とあれば、川尻氏信
は、内島にそむき、金森勢を導き、先帰雲山城を破亡さんとて、此橋まで来り、尾上氏綱
に支られて、是を捨て置き、上白川より松倉に向はば、後を食い止められんと思いはかり
て、越前へ返り、更に8月、二ツ屋より、討入られしにこそ」『斐太後風土記卷八、九 大
野郡白川郷小鳥郷白川郷』(富田家文書)
 旧岩瀬橋は江戸時代には、お上(高山陣屋)専用の御入用橋で、欄干(らんかん)のあ
る板橋であった。

 岩瀬橋 
 現在の岩瀬橋である。

 <和田地区>旧荘川村大字赤谷小字和田(庄川の東、右岸に位置する)
 赤谷橋を東に渡って進むとつきあたりに戦没者の碑が4基あった。これを境として北の
方向に「和田地区」があり巾3m程の道が和田山に向ってのびていた。この道は和田地区
の人々にとっては大切な生活道路であり、一本の草木、一個の石ころまでに愛着を持って
いたことだろうと思われる。和田地区はわずか5戸であったが西に面したなだらかな和田
山の裾に広がる位置にあって、庄川の流れや中野地区が一望できる素晴らしい環境であっ
た。また、南西の風や日ざしを受ける関係で冬の間に積もった大量の雪でも春の雪どけは
中野校下では一番早く、まっ先に地肌を見せてくれた。5戸の家は親族関係はないが大変
親密感があり、時には共同で仕事を進めたりして暖かい隣人関係を保っていた。
 人々は農耕に従事し田は、巻、下島(したじま)、下の巾(しものはば)という場所にあ
り、一部は棚田であったが肥沃な土壌に恵まれていた。家屋の点在する東側はなだらかな
斜面が続きそれぞれに地名があった。人家に近い部分を、だし、その上が彦四郎畑、一番
高い部分を空山といいこれらを含めて「通称和田山」と呼んでいた。昭和35(1960)年、御
母衣ダム建設により離村、水没となったのである。

 だしの山菜・ 
 和田山の一角にある「だし」と呼ばれた場所は山菜の宝庫で、春4月下旬から5月にか
けてあずき菜が芽を出してくる。それを人々は暖かい春の日、散歩がてらに親子、隣人と
共に連れだって若葉の摘み取りをした。そのほか、アズキナ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、
フキノトウなどの山菜取りで山一帯は大変にぎやかであった。この若葉の摘み取りは長い
冬期間に欠乏しがちだった生野菜の補給源として重宝がられたものだった。

 彦四郎畑・ 
 この辺りは一面ススキを始め数種の雑草が繁茂しており、これらの草は刈り取って家畜
の飼料や厩肥にするための採草地であり、夜明けと共に朝メシ前の草刈が風雨を問わず毎
日の日課として行われた。秋には地区総出でクサガラかきをして刈り取ったクサガラを組
み立て乾燥させて越冬用の飼料の確保に努めた。冬は子どもたちがスキーを楽しんでいた。

 下の巾の一本橋 
 「下の巾」と呼ばれた場所で庄川につきあたるが、この場所に「下の巾の一本橋」と呼
ばれた一本橋が架かっていた。この橋は中野地区の「此の下」と呼ばれていた場所とを一
本橋で結んでいたので、和田地区の人々にとっては中野地区への近道であり日用雑貨の買
い物をする時はよく利用されたものである。庄川の増水時にこの一本橋の流出を避けるた
めに木の端に穴をあけワイヤーロープを通し一方の端を近くの大木にくくりつけるなどの
工夫がなされていた。
 庄川を渡るのには浅瀬をえらんでそこに引渡橋をかけた。引渡橋のことを「丸太橋」、「一
本橋」などとも言った。これは最も簡単な橋で、長さ5mぐらい直径40センチくらいの
丸太の一面を手斧ではつって踏場にしたものを、川幅の狭いところをえらんで両方の岸に
かけるのである。川幅が広いときは、川の中央にある岩を継ぎ場にして2本継ぎ、3本継
ぎにしたのである。

 空山・ 
 「空山」は和田山の上層部であり戦前戦後焼畑づくりをよく行った場所である。山の斜
面に稗(ひえ)、蕎(そば)、栗、大豆、小豆などの穀物を作って食生活を支えていた。特
に耕地を持たない人々にとってはこの焼畑は食料確保のために大事にされ、秋の収穫を期
待して家族総出で耕したものである。

 和田山・ 
 校下で「和田山」と呼ばれていた標高1405mの山で、ここから中野、赤谷、岩瀬、
下滝、海上までが一望できたのであった。

 赤谷地区(庄川の東、右岸に位置する)
 現在、御母衣ダム湖沿いの「ドライブインみぼろ湖」の対岸(東)が赤谷地区で、赤谷
は庄川より数十m以上土地が高くなっていた。赤谷地区への道は中野地区のたがたの原へ
通じる道と同位置の東側に庄川へ向って下った道があった。やや急坂で大きく蛇行し庄川
のあじめ河原近くを通り、「赤谷橋」を渡り終えると東北に分岐していた。ここから北の方
向に「和田地区」、東南に「赤谷地区」がありこの2地区を赤谷区と呼んでいた。この地区
は和田山から丸山にかけての山裾に広がる地域で、庄川の流れも一望でき豊かな自然環境
に恵まれた田園地帯であり、寄棟造りの茅葺の家屋が静かな佇まいを見せていた。
 和田地区へ行く道と反対方向南へ坂道を登りつめると見渡す限り広々とした田が続いて
いる。道路はちょうど赤谷地区を分断するかの如く中央を東にのび落部峠へと通じていた。
 田畑の多くは酸性土壌であったが、南西に向って広がり農作にはよく適しており全戸1
6戸は農業に従事し、どの家にも牛馬が飼育されていた。家屋は落部地区へ通じる道路を
境として南に5戸、北東方向に11戸が点在していた。この赤谷地区は古くから開かれた
場所を示すかの如く中野校下の他地区では見られない大きな茅葺の家々が数戸あった。
 白川村にある合掌造りとはやや異なり、寄棟造りの構造をした建物であり、どの家も間
口が7~8間に及んでいた。家の多くは南西の緩斜面の山裾近くにあり豊かな山水を引き
込み、前方に耕地が眺められるようにして構えており住み心地は大変よかった。昭和35
(1960)年、御母衣ダム建設により離村、水没となったのである。

 向い・ 
 和田地区の北に「向かい」と呼ばれた場所があり、河川敷に出来た平地はここで終りで
中田家が一軒あった。

 赤谷城 
 海上地区の「聖殿碑」から東北東の(庄川の右岸)赤谷地区の尾根上に「赤谷城」があ
ったのである。赤谷城の縄張りは広く現在も遺構(堀切)が残っているのであった。

 小牧の風穴・ 
 和田地区の北の「向かい」と呼ばれた場所の中田家から更に北に、大きな「風穴(洞)」
があった。この穴は大人が楽々と出入りできる程の高さであり、何処からともなく風が洞
外に向って吹いていた。夏涼しく、冬暖かいこの風穴の自然現象をうまく利用して、蚕卵
の保存、祭礼用神酒のドブロク、農作物の芋類、大根、ニンジンに至るまでの貯蔵庫とし
て大いに活用したものだった。

 上赤谷砦 
 中野地区の照蓮寺からほぼ北の(庄川の右岸)赤谷地区の尾根上に「上赤谷砦」があっ
たのである。現在も遺構(堀切)が残っているのであった。

 赤谷橋 
 赤谷地区と、中野地区を結ぶ庄川に「赤谷橋」が架かっていたのであった。木造「赤谷
橋」は昭和34(1959)年9月27日の伊勢湾台風が白山上空を通過のため、暴風雨、大洪水
によって橋の3分の1が流出してしまい、地区の人々に不安を与えたが人々の強力によっ
て、やがて仮の橋がつくられた。赤谷橋付近で若山仁平氏が砂金採取を終戦後まで企業し
ていた。

 石鏃(やじり)・ 
 赤谷地区は至る所から石鏃が発見された。特に多い所は、西ヶ巾、井ノ下、中通の田畑
であった。2000~3000年前の縄文、弥生時代の狩猟用具や武器として使用された
石器が発見されるということから、この地は古い歴史をもった土地柄といえる。

 茶巾・ 
 赤谷橋から南の庄川の曲がった場所に「茶巾」の淵があったのである。

 せいば・ 
 茶巾辺りは「せいば」と呼んで夏は鮎が沢山釣れたのであった。

 血とり・ 
 赤谷地区の南、丸山近くの一端に「血取り場」と名づけられた場所があった。この場所
は農耕に使役する牛馬を年2回、春の農耕の始まる前と秋収穫後にこの地に集め、終日地
区民共同で牛馬の手入れをしたのである。蹄(ひづめ)の切断、蹄鉄(ていてつ)の取り
替えを初めとしたが、中でも重要なことは血取りといって牛馬の口腔内を清潔にすると共
に舌に針を突きさして血をとることであった。これは、血液の循環をよくしよく肥えるた
めにと行われた。もうひとつは尻毛の先端部分に真赤な焼きごてを押しあてて、ジュウッ
と焼きつける見るからに悲惨な光景もあったが、これは冬期間牛馬が寒さに負けず風邪を
ひかぬようにということで行われたのであった。

 八幡神社祭礼・ 
 毎年秋の収穫期を迎える9月9日、八幡神社の幟(のぼり)が立つとこの赤谷地区の神
社の祭礼が始まる。八幡神社は落部峠にさしかかる附近の杉木立の中に囲まれた社であっ
た。

 岩瀬赤谷橋・ 
 岩瀬地区の北から、落部川下流の赤谷地区の南に架かる「岩瀬赤谷橋」があったのであ
る。この橋は昔から使われており、岩瀬~赤谷間の大切な橋であったのである。

 <落部地区>旧荘川村大字赤谷小字落部(庄川から東にある)
 赤谷地区より東へ峠を大きくカーブして登りつめると南に向って道は下り落部川につき
あたる。静かな山あい、なだらかな南斜面をもつ盆地に開けていたのが「落部地区」であ
った。道路はトラックが往来するに便利なほど広く落部川を渡ると奥深い山中へと続いて
いる。この道はかつて落部金山の繁況の頃造られたものであるが、金山の跡を通って更に
進むと村内の三谷地区へと続いていることから、昔から白川村へ通じるための重要な街道
のひとつともいえる。落部地区は11戸の集落であるがどの家も親族関係(本家、分家)
にあって総ての行事は寄り合い、助け合いといった状態で実にうらやましいかぎりであっ
た。家屋は落部川近くの平坦地に南側に面して肩を並べ寄りそうようにして建っていた。
 落部地区は他地区と比べて平坦地は少なく、南斜面が峠の頂上から落部川までに広がっ
ており多くの田畑はこの斜面にありその殆んどが棚田の形式を有していた。秋になると周
囲の山々の紅葉、黄金の穂波が人々の目を見はり絵にでも書いてみたい、そんなすばらし
い山あいの風景であった。昭和35(1960)年、御母衣ダム建設により離村、一部水没となっ
たのである。

 落部川 
 落部集落の南に「落部川」が西に流れており、庄川と合流しているのであった。

 落部金山 
 大字赤谷の北東2Kmの赤谷川の源流にあって岩石の中に含金石英脈を含み、その鉱脈は
およそ南北方向に走っていたようであり16~17世紀にかけて開発が行われたようであ
ったが、今ではその形跡は埋もれて見ることはできない。

 落部峠の狐と小判・ 
 赤谷地区より落部に通ずるにはひとつの峠を越さなければならなかった。この峠は昔か
ら狐(きつね)が出て人をだますと言っていた。そこで落部の住人、長右エ門は人間がば
かにされるなんておかしいと思って逆に狐をだましてやろうと思って突飛な恰好をして行
き、みごとに狐に出会い狐に向って「私は困っています。どうかお金を貸してください」
と頭をペコペコさげた。狐はだまって土を掘り小判を3枚だしてくれた。長右エ門は急い
で持ち帰りきっと木の葉だろうと思ってとり出してみたが、どうみてもそれは本物の小判
だった。村中の人が見ても本物だという。こうして落部峠には狐の埋めた小判があるだろ
うという評判だった。

 くずんべら・ 
 峠から東へ雑木林のあった山を「くずんべら」と呼んでおり、燃料用として地区の人々
にとっては恩恵の多い山林であった。春も間近の3月頃からはるきやまといって燃料用の
薪づくりに出かけ、クリ、ナラなどの雑木を伐採して乾燥させ、1年間の燃料確保に精出
したものだった。

 湧き水(泉)・ 
 落部集落にある3本の道の真ん中の道を下って来ると、十数本の杉木立があってその場
所にこんこんと湧き出るしみずがあった。この水は万四郎家の大切な飲料水であると共に、
この美しい水を利用して一帯にワサビをつくり新鮮で匂いのいいワサビが人々の食膳に供
したものだった。

 秋葉神社・ 
 5月16日、他地区と同じように一斉に行われた。火と土の神を祀ったこの神社の祭り
である。赤飯やご馳走を作って神前に供え、祈願後は地区の人総出で酒食を共にしながら
1日を楽しく送った。

 せぎ台・ 
 落部川に砂防用に作られたこの「せぎ台」は土砂の流出を防ぐのに役立っていたのだが、
庄川の本流から産卵のため遡上するウグイが堰によって上流に登れないため群れをなして
集まっていた。その状態は川底が見えない程一面ウグイばかり川の中へ入って行きどれだ
けでも手づかみができた。

 杉谷・ 
 落部川の「せぎ台」(砂防堤)の南側一帯を「杉谷」と言い落部の人々の飲料水はこの辺
りから取水していた。この杉谷はゼンマイやワラビなどが無数にあり落部地区の人はもち
ろん、他地区から大勢の人が山菜取りを楽しんだものである。

 オオナコ・ 
 「オオナコ」と呼ばれたこの場所は落部の人々にとっては家畜の飼料となる大事な採草
場であった。一面の雑草と杉木立に囲まれた湿地帯があってその場所には親指大もある野
生のフキが至る所に繁茂していた。このフキは太いばかりでなくやわらかさ、味などは格
別であった。

 岩瀬落部橋・ 
 落部集落の南西の落部川に「岩瀬落部橋」があったのであった。この橋は昔から使われ
ており、岩瀬地区の山の中から落部地区へ通じる橋であったのである。

 落部橋・ 
 落部集落の東の落部川に「落部橋」があったのである。この橋は昔は使われており、三
谷地区の山の中から落部地区へ通じる橋であったのである。

 <下滝地区>旧荘川村大字岩瀬小字下滝(庄川の西、左岸にある)
 岩瀬地区の庄川の西(左岸)に下滝地区があったのである。下滝への道は牛丸地区との
境をなす「ブラ橋」経由の旧道か、新道より下滝に通じる「下滝岩瀬橋」のつり橋を渡っ
ていくかであった。下滝は西側に山、東側は庄川という立地条件から戦国時代の領地争い
には戦場の要として重視されていた地域でもあり、近くには「古戦場跡」もある土地柄で
あった。戸数はわずかに6戸であるが、この中には切妻合掌造り屋根として全国的にその
名を知られた「若山家」があった。家屋は東向きのなだらかな斜面の一角に面して建てら
れ山に囲まれている割に日照時間が長かった。西側に続く山々の峰は大日岳や白山連峰に
続き、それ等の山あいから流れでる清らかな谷川の水が人々の飲料水になったり、水田耕
作にも十分利用されて水に対する不安感は殆んどなかった。ただ新道が岩瀬地内を通るま
では北の方に「阿弥陀禿げ」という難所があって土砂の崩壊、冬季の雪崩が多く大変危険
な個所があって交通の妨害を何回となく受けて往来に大変不便さを感じたが、新道が完成
するとそういった心配もなくなった。もちろんこの被害は地区の人だけではなく荘白川(荘
川村、白川村)の村民に影響を与えていた。昭和35(1960)年、御母衣ダム建設により離村、
水没となったのである。

 阿弥陀禿げ(あみだはげ) 
 切り立つ山の斜面と庄川に挟まれた幅数メートルの砂利道を「阿弥陀禿げ」と呼んでい
たのであった。カーブの多い難所の砂利道で、土砂崩れの多い、冬季の雪崩が多く大変危
険な個所があって往来に大変不便な道だった。この場所を通る都度に誰彼となく念仏を(南
無阿弥陀仏)を唱え合掌しつつ安全をお願いした場所を阿弥陀禿げと呼ぶようになったの
である。昭和22(1947)年に岩瀬~中野間に「中野橋」が架かってからこの不便さから解消
されたのであった。

 若山家 
 現在の岩瀬橋から南西に「若山家」があったのである。下滝地区に、切妻合掌造り屋根
の民家があった。旧荘川村で切妻合掌造り屋根の民家は、海上地区橋場家、森下家、小林
家と、牛丸地区渡辺家と、下滝地区若山家の計5軒であった。若山家の外形は白川式の切
妻合掌造り屋根であるが、その内部構造の一部は荘川式寄棟造りの構造を残しており、そ
の全体の形、構造上から文化財に指定された建物である。御母衣ダム湖の水面が低い(渇
水)時など、若山家跡が現れるのであった。この若山家は現在、岐阜県高山市上岡本町「飛
騨の里」に移築されてその面影を残してくれている。

 下滝橋(つり橋) 
 下滝地区と岩瀬地区の庄川に架かるつり橋が「下滝橋」であったのである。

 高橋淵・ 
 下滝橋の南に「高橋淵」があったのである。うず巻く淵、青く澱(よど)んだ水に思わ
ず気味悪さを感じたのがこの淵だった。その淵の上に下滝橋のつり橋が架設されていたが
子ども等は目をつむって一目散に駆けていき渡り終えたものだった。

 下滝の滝・ 
 若山家の西の谷に、滝があったという。

 下滝金山・ 
 1600年代には稼働していたようであるが、下滝の金山の位置については不明である。
下滝で若山仁平氏が砂金採取を終戦後まで企業していた。

 牧場・ 
 若山家の南にある谷川沿いに山道を登って行くと山中に荒涼たる場所がある。この辺り
はかつては岩瀬、中野地区人々が牛馬を飼育していた頃に放牧に使用した場所である。

 下滝の力持ち(神様松)・ 
 若山家の裏山に「神様松」という一本松があった。この木の根元に不動さまが祀ってあ
ったが夜になると不思議な火がともるので人々はおそれていた。

 岩瀬地区(庄川の東、右岸に位置する)
 牧戸地区→牛丸地区→岩瀬地区で、現在の「岩瀬橋」東から、北辺りが「岩瀬地区」で
あったのである。その景観はいかにも白川郷の玄関口といった印象を与えてくれた。祖先
伝来の田畑を守り続けてきた岩瀬地区には由緒ある家が10戸あった。庄川の流れも急流、
浅瀬、淵と変化に富んでおりさまざまな川魚の棲息に適し、夏ともなると子どもを始め、
若者たちが水中深く潜ったり網を張ったりして魚を捕っては楽しんだものである。昭和3
5(1960)年、御母衣ダム建設により離村、水没となったのである。

 けし谷の目つぶし金・ 
 岩瀬集落のはずれ、北の方向に、東側の山中から流れる小さな谷川があった。現在もそ
の上流を見ることができる。この谷川のことを「けし谷」と呼んでいた。谷川には多くの
砂金があったようであるが、昔の人々はこの金を見ると目がつぶれてしまうといって、そ
の金を谷川深く埋めてしまい、二度と人々に見せないようにしてしまった。そうしてこと
からこの谷の名をいつしか金を消すから、「けし谷」と呼んだようである。その後はこの谷
から多くの六方石を見かけたものである。

 矢箆原家(岩瀬佐助) 
 現在の岩瀬橋から北東に「矢箆原家」があったのである。この家は重要文化財の指定を
受けていた由緒ある造りであった。荘川村の豪農のご三家のひとつとも言われ、入母屋寄
棟造りで2階建ての茅葺屋根であった。重量感のある骨組みと玄関の特殊な造り、室内の
間取り構造は他の家屋では見ることができず、歌にまで「岩瀬佐助のまねできぬ」といわ
れて歌われていた程だった。御母衣ダム湖の水面が低い(渇水)時など、矢箆原家跡が現
れるのであった。この家屋は現在、神奈川県横浜市の「三溪園」に移築されている。荘川
村の豪農ご三家は、岩瀬村の矢箆原家と、一色村の三島為右衛門と、新淵村の宝蔵寺山本
家庫裡である。

 水上谷・ 
 矢箆原家のすぐ南を流れていたのが「水上谷」で、集落の中央を東西から南に流れるこ
の谷川は清らかで豊富な水量であったので、岩瀬地区の人々にとっては大切な飲料水とな
っていた。昔は矢箆原家前から「あがりたて」までの道があったようである。

 旧光輪寺跡 
 中野地区にあった光輪寺の開祖はこの岩瀬地区の東側の山中、三田洞と呼ばれる洞の中
田と呼んだ場所に堂を建立して布教につとめたようである。草木を踏み分けてその寺跡を
探ると土中に埋没しているが石垣用に使った岩石を点々と見つけることができた。

 金生神社・ 
 矢箆原家(岩瀬佐助)の南南西に「金生神社」があった。岩瀬地区は昔から産金地とし
て多くの文献に残っている。そうしたことから明治の初めごろ鉱山師が他国より来て鉱山
の仕事を始め、地元の人々も多数これに従事していた。そうしてことから人々の協力によ
って金が生まれるという意味から「金生神社」が建てられ毎年8月17日に祭事を行った。
(現在、金生神社は岐阜県関市の光輪寺の裏山に移築されている)

 あがりたて・ 
 矢箆原家のすぐ南から、山道を南東へ上った場所を「あがりたて」と呼んでいたのであ
った。

 八人塚、千人塚 
 岩瀬集落のはずれ東南の一角に通称八人塚、千人塚と呼んだ地域があった。戦国の世に
領地争いのため幾度かこの地で一戦を交え尊い人命を失った武士たちの遺骸を葬った場所
を人々はこうした呼び名をつけてその霊を慰めてやった。しかし、その後心ない人たちが
この塚に目をつけ遺品の発掘をこころみ、幾度か掘り返されているうちに塚跡もだんだん
と影を潜め地名だけがずっと残されていた。

 日照白山神社・ 
 荘川町岩瀬地区にあり、昭和24(1949)年、満州引揚者による開拓団20数戸がこの地に
入植した際、団員相謀り郡上郡長滝神社より白山三社大神を勧請して氏神神社として創建
した。当時荘川神社が改築中でその旧社殿がかつては牛丸八幡神社の社殿であったので、
これを譲り受けて当白山神社の社殿とした。古老の話ではこの社殿はもと牛丸にあった蓮
勝寺の先住小谷智元の作であるという。

 岩瀬金山 
 牛丸地区と、岩瀬地区のおおよその境界に「舟橋谷」という谷があり、地元で「千軒」
という場所の呼び名もあり、この谷で砂金が採れたので「岩瀬金山」はこの舟橋谷一帯を
指すものと思われる。このほか、岩瀬地区に金が採れた場所がもう1~2ヶ所あったよう
である。
 「文禄4(1595)年5月、時に文禄3年4月より白川の谷中で黄金出生して60余州の万民
集まり、金子五両十両ずつ出し申す。乙末の年は岩瀬村に町千軒余り出来るなり。前代未
聞の次第なりという。飛騨の国の守護人、金森法印すなわち奉行ありて御公料の金子太閤
様御進納なり」『長滝寺文書荘厳講記録』

 牛丸地区 
 現在、「牛丸ジュラ紀化石」や「七間飛吊橋」がある場所が「牛丸地区」である。昭和3
5(1960)年、御母衣ダム建設により一部移転又は一部離村、一部水没区域となったのである。

 舟橋谷・ 
 牛丸地区と、岩瀬地区のおおよその境界に「舟橋谷」という谷がある。この谷で砂金が
採れたのであった。

 ブラ橋 
 現在の「舟橋谷橋」の南西、庄川に架かるのが「ブラ橋」であったのである。この橋は
明治から大正の間に架けられた橋であった。白川村平瀬地区に平瀬発電所工事着工に先立
ち、大正12(1923)年から重量資材運搬に耐えうる「ブラ橋」を架け替え荷馬車運送を可能
にした。当時は荷馬車運送がもっぱら主流で、冬は馬ソリ運送であり、自動車はまだ少な
かった時代であった。昭和8(1933)年以後荷馬車運送は、次第にトラック運送へと変わって
行ったのである。

 ブラ橋のムジナ・ 
 ブラ橋近くに大きな松の木があってこの辺りからよくムジナが出て人々をだましたとい
う。日が暮れてまっ暗になった道を一人で歩いて行くと道端の山の上から大きな石が落ち
てきて道を塞いでしまう。灯りでよく見るとそれは石ではなく大坊主に見える。こうした
ことから人々はこの辺りを夜おそく一人で歩くとムジナにひどい目にあわされると言って
恐れていた。

 古戦場跡 
 牧戸城主と、帰雲城主が互いに領地争いをした。その一戦を交えた「古戦場跡」がブラ
橋近くにある。もちろんこの辺りは長い年月の間に地形がすっかり変わって跡らしいもの
は目につかない。古戦場跡は、1ブラ橋西、2ブラ橋東と、3そふ吊橋東の北辺りであっ
た。

 奇岩石・ 
 岩瀬小字下滝の南端、ブラ橋西から南の山中に世にも不思議な奇岩石がある。この岩石
は自然が造り出した女性のシンボルを見せてくれる。現在でも見ることができるから一度
見学するのも無駄ではないだろう。

 日照開拓地・ 
 戦前海外に移住して生活して見えた人達が戦後引き上げてから昭和23(1948)年16世
帯60余名が入植して、牛丸地区と岩瀬地区に跨ぐ山の丘陵地を農地として開拓(開墾)
した地域で広々とした台地である。入植時、樹木は伐採してあったが、木の根元(株)を
掘り起こす大変な作業をして開墾して、長い年月をかけて森林だった場所をようやく耕地
にしたのであった。入植した当初は長屋小屋で生活をしていて、ようやく昭和35(1960)
年ごろに各々の家を建てることができたのであった。

 七間飛吊橋 
 現在の「牛丸ジュラ紀化石」から西に「七間飛吊橋」が架かっている。

 そふ谷吊橋 
 七間飛吊橋から南方に「そふ谷吊橋」が架かっているのであった。そふ谷吊橋ができる
前は、庄川の川の中央の岩に丸太を架けた丸太橋であった。

 上滝川 
 七間飛吊橋の西(左岸)が「上滝川」であった。

 上滝の滝・ 
 上滝川にはいくつもの滝があった。

 上滝(上瀧)金山 
 牛丸地区から庄川の西の上滝川の上流にあったのである。金森時代の1600年代には
稼働していたようである。慶長20(元和元年1615)年頃、上滝山が俄(にわ)かに山抜け
して金砂を含んだ土砂が庄川に押し出し、庄川東の牛丸村にまでつづいた。その時山川と
もに谷汰(せ)りを(砂金採集)したという。そのため牛丸村は砂金採取で大繁昌し、飛
騨の西山の大盛りと呼んで他国まで評判になったという。『飛騨国中案内』

 渡辺家 
 牛丸地区に、切妻合掌造り屋根の民家があった。旧荘川村で切妻合掌造り屋根の民家は、
海上地区橋場家、森下家、小林家と、牛丸地区渡辺家と、下滝地区若山家の計5軒であっ
た。

 牛丸ジュラ紀・ 
 牛丸地内の牛丸橋上流の河底およびその両岸でジュラ紀の蜆(しじみ)の化石が見つか
ったのである。

 牧戸地区 
 向牧戸城から東辺りが「牧戸地区」である。

 牧戸城 
 向牧戸城から庄川対岸(北東)に平成16(2004)年、宇田氏が調査の際、偶然遺構があっ
たのが「牧戸城」である。現在も土塁が残っているのである。

 向牧戸城 
 内嶋為氏が白川郷に来て寛正年間(1460~1466)に「向牧戸城」を築いて、家臣の川尻
備中守氏信に守らせた。天正13(1585)年8月、羽柴秀吉の命で越前(福井県)大野城主、
金森長近率いる軍3000人が飛騨攻めを行った。大野城を出発した金森軍は2隊に分け、
金森可重隊は白鳥町から北上し、野々俣村から向牧戸城を2隊で挟み撃ちして攻略するは
ずだった。もう一方の金森長近隊は石徹白村から白山の峯越峠を越え尾上郷川から、海上
村、中野村へと進んだ。(岩瀬村に渡る「岩瀬橋の攻防戦」があった)やがて向牧戸城は激
戦地となり落城したのである。

 中畑地区 
 牧戸地区の南が「中畑地区」である。

 新渕地区 
 現在の「荘川の里」がある場所が「新渕地区」である。

 新渕城 
 荒川右馬丞に守らせたのが「新渕城」である。高山市荘川支所の東南東に「新渕城」が
あり、遺構(堀切)が残っている。昭和18(1943)年、日本本土決戦に備え荘川村新渕の脇
洞山頂(新渕城跡)に監視哨を設け、敵機の来襲を見張ったのであった。新渕城の北辺り
から「三谷地区」へ通じる山道があったのである。

 ここに取上げた内容は、『新編白川村史上巻・中巻・下巻』、『荘川村史上巻・下巻・続巻』、
『辛夷』(田下著)や、そのほかの資料から抜粋、古地図、地図を参照、荘白川在住の人や、
荘白川在住だった方々から聞取りした内容を要約したものである。2013 H25 12 11

参考文献
『飛騨山川』岡村利平著者 大正15(1926)年6月1日改版発行
『飛騨の大白川郷』昭和9(1934)年8月発行
『飛騨白川郷の風物』昭和25(1950)年初版発行
『白川郷の伝説と民話』西野機繁著 昭和47(1972)年4月発行
『荘川村史上巻』昭和50(1975)年2月8日発行
『荘川村史下巻』
『荘川村史上続巻』
『辛夷』田下著 昭和53(1978)年11月集録完成 (岐阜県立図書館所蔵)
『新編白川村史上巻』平成10(1998)年発行
『新編白川村史中巻』
『新編白川村史下巻』
『よみがえる湖底の郷7・7』田下著 平成14(2002)年6月
『往昔』田下著 平成15(2003)年7月
「飛騨国全図」天保3年(1832)中洲美郷(岐阜県立図書館所蔵)
岐阜県関係5万分1地形図、明治43年測図大正2年製版「白山」、「白川村」(岐阜県立図
書館所蔵)

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